これが私のクリア条件

第 一 幕 こっちの世界

第一幕 ・ CHAPTER Ⅰ 朝の孤独

朝は、いつも輪郭のないところから始まる

朝は、いつも輪郭のないところから始まる。 まぶたを上げても、天井はただ白いだけで、境目がどこにもない。光が滲んで、部屋の四隅が溶けている。眩しい、と思うより先に、無理、と思う。

枕元を手が探る。一回、二回、空振りして、三回目でようやくアラームの角に触れた。音が止む。 六時半。あと五分。……嘘だ。もう起きないと遅刻する。

ケースの蓋を開ける。カチャ、と小さい音。指先で片方をすくって、目に落とす。まばたきをひとつ。 にじんでいた世界に、輪郭が戻ってくる。机の角、カーテンの襞、床に落ちたままの昨日の制服。ぜんぶ、いつも通りの粒の粗さで、そこにある。

朝……か。

通学路は、向かってくる人をよけて歩くだけの簡単なお仕事だ。 誰も彼も、朝からよく声が出るなと思う。すれ違いざまの話し声は、いつもの通り、意味になる手前で、ざらざらと崩れていく。 みんな、朝からどこにそんな元気があるんだろう。私はといえば、起きただけで、その日の分をもう半分は使い切っている。

首にかけたヘッドフォンを、耳の上にずらす。中では何も鳴らしていない。ただ、外の音が一枚ぶん遠くなる、その壁がほしいだけだ。 顔は見ない。見なくても歩ける。スニーカーのつま先と、その先の横断歩道の白い縞だけ追っていれば、学校までは辿り着ける。信号待ちのあいだ、隣に並んだ誰かの制服が、視界の端でぼんやり滲んでいる。立ち止まる。歩く。それだけのことを、毎朝くり返している。

ふと顔を見上げると角の塀の上に、いつもの猫がいる。 どこの飼い猫でもないくせに、毛艶だけは妙にいい。今朝は塀のいちばん陽の当たるところで、前足を折りたたんで丸くなっていた。私が下を通っても、薄目を開けただけで、また閉じる。

こいつは、誰にどう見られるかなんて、一生考えないんだろう。陽の当たる場所を選んで、そこで勝手に満ちている。いいご身分だ。 少しだけ足を止めて、それから、止めた自分がなんとなく癪で、また歩き出した。

学校の手前で、コンビニに寄る。今日のぶんを、まだ買っていない。 目当ては決まっている。いちばん奥の冷蔵ケース、下から二段目。黒い缶に、青いラベル。糖分ゼロのやつ。色違いはいくらでもあるけど、緑でも白でもなく、これじゃなきゃだめだ。理由を説明しろと言われても困る。強いて言うなら、この青がいちばん、余計な甘さの顔をしていないから。人工甘味料は毒だという人もいるけれど、この味が好きな人類もいるのだ。

レジを通して、外でプルタブを起こす。ぷしゅ、と気の抜けた音。ストローを挿して、ひとくち。冷たさと、甘くないくせに甘ったるい後味が、喉の裏を撫でていく。これで、足りない分の元気を前借りする。あとで利子つきで請求が来るのは、まあ、目をつぶろう。それでも飲む。画面の前で夜更かしする種類の人間は、だいたいこれの世話になっている、、のだと思う。

缶を、朝の光にちょっとかざして、写真を一枚撮る。上げる先は、その日の一本を貼るだけの、それ専用の置き場所だ。誰に見せるわけでもない。ただ、これをやらないと一日が始まらない気がする、というだけの日課。「今日のぶん」と、それだけ添えて、指で放る。 見ている人なんて、たぶんいない。フォロワーは片手で足りるし、その半分は、もう動いていないアカウントだ。

……のに、上げて三十秒で、ひとつだけ反応がついた。

『また飲んでるー! それ毎日は体に悪いってば』

花音だ。朝のこの時間に、私のこんな更新を、いったいどこで見張っているんだか。

同じ画面の、少し上のほう。花音のならべた写真は、私のとは正反対だ。生クリームを盛れるだけ盛った、ピンクや白の甘いやつ。あの、緑のロゴの店の、名前が呪文みたいに長いフラペチーノってやつ。あの生クリームの山のほうが、よっぽど体に悪いと思うけれど。缶ひとつきりの私の列と、飾りで溢れた花音の列が、ひとつの画面に、上下でならんでいる。

『体に悪いのは知ってる』とだけ返す。 すぐ下に、頬をふくらませた顔のスタンプがぽんと並ぶ。 ……まったく。

もうひとくち吸って、残りの道を歩く。足の運びが、さっきより少しだけ軽い。それが自分でも、あんまり面白くなかった。

第一幕 ・ CHAPTER Ⅱ 教室と花音

教室の戸を引く。 朝の教室は、一日でいちばんうるさい。あちこちで声が固まっては、ほどけていく。

「昨日の夜のあのアバターさー」「見た見た! 新しいスキンでしょ?」「でもあのARのやつ、エフェクト派手すぎて酔うんだよね」

どこかのグループから、そんな会話が飛んでくる。 世界には今、そういう情報が溢れかえっている。でも、私の視界は今日もざらざらと粗い。株式会社可月とかいう日本の企業が作ったシステムで、もともとは過激な表現なんかを隠すためのフィルター機能らしいのだけど。私は、視界に入るほとんどのものをそれで落としている。

みんなが綺麗に着飾ったり、派手なエフェクトを飛ばしたりしているのを、ただのぼやけた色の塊としてやり過ごす。このシステムの恩恵をいちばん受けているのは、たぶん私だろう。

その騒がしい真ん中あたりに、花音がいた。 何人かに囲まれて、笑っている。誰かの話に大げさに手を叩いて、別の子に肩を寄せて、また笑う。みんなの真ん中で、みんなのぶんまで明るい。フィルター越しのはずなのに、その一角だけ、朝から妙に発光しているように感じるのは気のせいだろうか。

私の席は、その輪から窓ひとつぶん離れた、いちばんうしろ。鞄を下ろして、椅子を引く。花音はまだあっちで笑っている。今朝はこのまま、あっち側で一日が始まるんだろう。それでいい。私は私で、ノートでも——

「あ、瑠杏! おはよー!」

椅子に腰を下ろしきる前に、声が飛んできた。目を上げたのを、すぐ後悔する。 花音だった。さっきまで輪の真ん中にいたはずの明るさが、まっすぐこっちに歩いてくる。

花音のことだけは、いつも、うまく見られない。まっすぐ見ると、目の奥がちりちりして、視線がひとりでに逸れていく。輪郭が、他のどれより一段くっきりしている。まつ毛の一本、笑ったときの八重歯、頬に落ちる後れ毛まで、全部が近い。近すぎて、すこし痛い。 だから、顔じゃなくて、その斜めうしろの黒板あたりを見て話す。

「……朝から声でかい」

「ねー聞いてよ、きのう借りたゲーム、二面のボスでずーっと死んでるんだけど!」

「……あそこ、右斜め下に逃げれば当たらない」

「えーっ、ダッシュしながら斜め下とか、指つるってば! 瑠杏の指どうなってんの」

「普通に。……ていうか、いい加減それ返してよ。借りパクする気」

「うっ……じゃあさ、今日の放課後、瑠杏んち行っていい? 続き教えてほしいなー、なんて」

膝の上で、鞄の持ち手を握り直す。

「……いいけど。暇だし」

「やった! さっすが瑠杏、優しい〜」

それから、ふっと声だけ落として、「……朝のあれ、ほんとにほどほどにしなよ」と付け足した。心配は、たぶん本気だ。でも、それを長引かせないのが、花音のいいところでもある。

花音がまた笑って、何か言った。まぶしくて、目を逸らす。逸らしても、さっきの顔だけが、瞼の裏にくっきり残っている。

ノートを出す。 一時間目が始まる。先生の声が、教室の前のほうから、平たく流れてくる。ノートは、なぜかちゃんととっている。別に花音のためじゃない。授業中、他にやることがないだけだ。——でも花音がいつも「見せて」と言ってくるのは、知っている。そのとき渡せば、二人ぶんの記録でひとつに足りる。

斜め前の列に、花音の後ろ姿がある。窓から入る光が、その髪の輪郭だけを、やけにくっきり縁取っている。ほかの頭がひとつづきの帯みたいに霞むなかで、そこにだけ、線が一本余分に引いてある。ときどき肩が小さく跳ねて、机の下で何かを拾っている。たぶん、また消しゴムを落とした。

私は頬杖をついて、板書と花音の後頭部を半分ずつ眺める。チャイムが鳴るまで、その繰り返し。ノートの端には、意味のない四角ばかり増えていく。 窓の外は、いつも通りの、少しぼやけた青だった。

第一幕 ・ CHAPTER Ⅲ 灼熱の下校

放課後の昇降口を出た瞬間、熱の壁にぶつかった。 空気が、ぬるくて重い。アスファルトの上で景色がゆらゆら溶けて、遠くの信号がかげろうの向こうに滲んでいる。蝉がどこかで、耳の奥まで刺さる音で鳴いている。まだ立っているだけなのに、うなじを汗がつたって落ちた。

だめだ。これは、たどり着く前に干からびるやつだ。朝の一本で前借りした元気は、とっくに底をついている。日陰から日陰へ、なるべく短い距離を選んで、ふらふら歩く。

「瑠杏、溶けそうな顔してる」

声のしたほうを見たら、花音がいた。いつのまに、と思う。校門を出るとき、あの子はまだ誰かに囲まれていたはずなのに。気づいたら、もう横にいる。毎回そうだ。花音は、来るとも言わずに、ただ隣に足並みをそろえてくる。

手には、購買で買ったらしいアイスがふたつ。片方が、こっちに突き出される。袋の上からでも、もう端が崩れかけているのがわかった。

「はい、瑠杏のぶん。溶けちゃうから早く」

「……いつ買ったの」

「最後の授業のあいだ。だって今日、ぜったい溶ける人いるなって」

溶ける人。それは私のことだろう。言われるまま、電柱の細い影に入る。焼け石みたいな道の、そこだけが少しましだった。花音のは、ピンクの、いかにも甘そうなやつ。私に押しつけてきたのは、ソーダ味の青いの。わざわざ選び分けてくるあたりが、なんというか、厄介だ。

「……あんた、よくその甘いの、この暑さで食べられるね」

「えー、こういう日こそでしょ!」

花音が笑う。その笑い声だけが、蝉の音の中でも、なぜかちゃんと形を保って耳に届いた。溶けかけのアイスを、並んでかじる。冷たさだけが、喉の奥を通り過ぎていった。

角をふたつ曲がって、坂をひとつ上れば、私の家だ。最後の直線だけは、日なたを突っ切るしかない。覚悟を決めて足を踏み出したとき、花音が「せーの」と言って、なぜか一緒に走り出した。意味もなく、二人で。玄関の庇の影に飛び込んだころには、二人とも息が上がって、汗だくで、なのに花音は楽しそうに笑っていた。

鍵を開ける。ひやりとした廊下の空気が、生き返るみたいに肺へ入ってきた。

第一幕 ・ CHAPTER Ⅳ 放課後・二人の秘密の時間

放課後の部屋は、朝よりずっと静かだ。 カーテンを半分引いて、蛍光灯はつけない。西日がブラインドの隙間を細く切って、床に何本もの線を落としている。机の上では、古い平面モニターがひとりで青白く光っていた。今どき、こんな四角い画面に向かってコントローラーを握るなんて、たぶん学年で私と花音くらいのものだ。

二人して床に座り込んで、手には有線のコントローラー。ケーブルが足元でゆるくとぐろを巻いている。角の取れたプラスチックの感触。ボタンは何百回も押されて、印字がところどころ薄くなっている。

「あーっ、また落ちた!」

隣で花音が声を上げる。持ち手を握った拳が、悔しそうに膝を叩いた。

「信じらんない。昔のゲームって、ジャンプの判定きびしすぎない?」

画面の中では、ドットで組まれた小さいキャラクターが、同じ足場の手前で、もう五回は落ちている。落ちるたびに、間の抜けた効果音がひとつ鳴った。

「……だから言ったじゃん」私は画面を指す。「そこ、手前のブロックで一回ダッシュの勢いつけて、ぎりぎりで飛ぶの」

「むりぃ。瑠杏、代わりにやってよ」

「いや、それじゃ意味ないでしょ」差し出された持ち手を、押し返す。「クリア条件は、花音が自分の力でそいつを倒すことなんだから」

「えー、スパルタ……」

花音が唇をとがらせる。その横顔が、また、近い。まつ毛の一本まで、いやになるほどはっきりしている。まっすぐ見ると目の奥がちりちりするので、私は画面のほうへ視線を戻した。

しばらく、ボタンを叩く音と、チープな音楽だけが部屋に転がっていた。花音がまた三回、同じ場所で落ちる。四回目でようやく足場を越えて、「乗った!」と声を裏返らせた。私は「うん」とだけ返す。それ以上は言わない。言わなくても、たぶん伝わっている。

「……ていうかさ」ひと区切りついて、花音がコントローラーを膝に置いた。

「ん」

「瑠杏って、ほんとにこういうの好きだよね。画面の、中だけで遊ぶやつ」

「……」

「今どきのさ、潜って遊ぶのとか、みんなで同じとこに集まってやるやつとか、全然やんないじゃん。今なんて、見てるだけで街並みが変わっちゃうし、自分の見た目も好きにいじれるし。べつに何もしてないのに、気づいたら別の場所にいるみたいなさ」

「……ああいうのは、疲れるから」

本当は、疲れるなんて言葉じゃ足りない。人の声も、色も、我の強さも、全部いっぺんに押し寄せてくる場所は、息の吸い方を忘れる。でも、それを言葉にするのはもっと疲れるので、やめておく。

「こういうのはさ」モニターの縁を、指でなぞる。「この四角い中だけで、話が終わってる。決められた通りにしか動けない。ボタンは決まった数しかないし、行ける場所も、最初から全部決まってる。……だから、楽なんだよ」

「そっかー」

花音は、それ以上なにも聞かなかった。わかったとも、変だとも言わない。ただ、そっか、と受け取って、画面の中の小さなキャラクターに目を戻す。その横顔の輪郭が、西日でうっすら光っていた。

ふいに、花音が両手を顔の前でぱちん、と合わせた。何かを閉じるみたいな仕草。

「……なに、今の」

「んー? 瑠杏とお揃い」花音はこともなげに言う。「こっちの世界に、ちゃんといたいなって」

こっちの世界。お揃い。 何がお揃いなのかは、よくわからない。でも花音は、それを当たり前みたいに言う。

もう誰もやっていない、みんながとっくに置いていった、この狭い画面の中を。私がひとりで閉じこもっているだけの、ここを。わざわざ足を踏み入れて、平気な顔で並んでくる。 なんで花音は、こんなに私なんかに構うんだろう。

朝、あの輪の真ん中で笑っていたのと、同じ顔で。今はこの狭い部屋で、私の下手な説明にうなずいている。どうせいつか、あの眩しいほうへ帰っていくくせに。——そう思ったそばから、そう思った自分が、少しだけ嫌になった。

「さ、もう一回! 次こそあの足場、乗ってやるんだから」

花音がコントローラーを握り直す。ケーブルが、床でかすかに鳴った。

「……貸して」

「え?」

「一回だけ、手本見せる。よく見てて」

差し出された持ち手を、今度はこっちから受け取る。まだ花音の手のぬくもりが残っていて、プラスチックが少しあたたかい。その温度は、思ったより長く、手のひらに残った。

「やった! 瑠杏プロのお手並み拝見〜」

花音の声だけは、相変わらず、何にも邪魔されずまっすぐ耳に届く。

私はスタートボタンを押した。ドットのキャラクターが、また最初の足場に立っている。何度でも、そこからやり直せる。ゲームの、そういうところが、私はたぶん好きだった。

第 二 幕 インシデント

第二幕 ・ CHAPTER Ⅰ 陰口

続けばいい、と思っていた。続くわけがない、とも。

それから何日か、同じような日が続いた。 朝、缶を上げる。花音が体に悪いと怒る。教室で二言三言。放課後は私の部屋でゲームして、花音が笑う。平穏、というのは、たぶんこういう、何も起こらない繰り返しのことを言うんだろう。続けばいい、と思っていた。続くわけがない、とも、どこかで思っていた。

その日の昼休みは、花音の席のまわりに、いつもより人が多かった。 女子が三人、男子がふたり。何かの動画をのぞき込んでは笑い、今度の休みにどこへ行くかで盛り上がっている。花音は真ん中で、いつものあの明るさで、全員のボケをひとつずつ拾って返していた。

私は自分の席で、ひとりで菓子パンをかじる。べつに、いつものことだ。花音にはあっち側の時間があって、私にはこっち側の時間がある。昼はあっち、放課後はこっち。そういう住み分けで、これまでもやってきた。

「ねー花音、次の土曜、みんなで海行くんだけど。来るよね?」

「あー……土曜かあ」

「来なよ来なよ! 花音いないと始まんないって」

声は、こっちまで筒抜けだった。聞き耳を立てていたわけじゃない。ただ、花音の声だけは、どこにいても、勝手に耳に入ってくる。

「んー、その日はちょっと……」花音の返事が、少し濁った。

土曜。放課後じゃないから、たぶん私には関係ない。関係ないのに、なぜか、パンを持つ手が止まっていた。

と、女子のひとりが、ふと私のほうに目を向けた。それから、少しだけ声を落として——落としたつもりの、でも半分こっちに届く声で——言った。

「ていうかさ、花音っていっつもあの子といるよね。九条さん、だっけ。静かだし、なに考えてるかわかんないし……正直、花音がなんであんな子と、って思うんだけど」

あんな子。 あんな、の三文字だけが、やけにくっきりと、耳の奥に残った。

教室のざわめきが、急に一段、遠くなった。そのくせ、どこかの笑い声だけが、意味をなくして、尖った音の塊になって耳を殴ってくる。蛍光灯が、妙にちらつく。菓子パンの味が、いつのまにか、わからなくなっていた。

わかってる。そんなことは、ずっと前からわかってる。私は静かで、暗くて、なに考えてるかわからない、あんな子だ。花音の隣に、本当は、ふさわしくない。

顔は上げないまま、耳だけが、花音の返事を待っていた。違うよ、と言ってほしいわけじゃない。ただ、なんて返すのかだけ、知りたかった。

「えー、なにそれ〜」

花音の声は、いつも通り、明るかった。ちゃんと、笑っていた。

「瑠杏はいい子だよ? ……まあ、暗いのは否定しないけどさ」

「あはは、花音って優しいよね〜。ほんと、神様・仏様・花音さま〜」

どっと、笑いが起きた。

冗談。場を丸くするための、花音のいつもの、上手な冗談だ。悪気なんて、ひとつもない。わかっている。花音は、あっちの世界でも、こっちの世界でも、ちゃんとやっていける。だから、ああやって、笑って流せる。 私には、それができない。

どうせいつか、と、いつもの声が胸の内で言った。そのあとにいつも来るはずの、それを打ち消す声が、今日は、来なかった。代わりに、そうだよな、という納得だけが、静かに沈んでいく。

住んでる世界が、違う。

パンを袋に戻した。半分残っていたけれど、もう、味がしなかった。

第二幕 ・ CHAPTER Ⅱ すれ違い

午後の授業は、ほとんど覚えていない。 斜め前の花音の後ろ姿を、今日は、見なかった。見れば、たぶん、あの光はいつも通りそこにあって、いつも通り眩しくて、そして、いつも通り遠い。それを確かめるのが、こわかった。

放課後。鞄をつかんで、いつもより早く、席を立った。

「瑠杏、今日も部屋、行っていい?」

追いついてきた花音の声は、いつも通りだった。「あんな」の三文字が、まだ耳の奥に貼りついたままだったのに、断る言葉が出てこなかった。

「……うん。いいよ」

いつもの声で、いつもの返事をしている自分に、少しだけ、呆れた。

部屋は、いつも通り薄暗い。カーテンで西日を半分だけ切って、床に座って、古いコントローラーを二人で取り合う。ボタンの塗装が剥げているところまで、二人ともよく知っている手触りだった。

花音のスマホが、鳴った。 画面の光が、天井を一瞬、白く撫でる。花音がそれを取り上げて、指を止めた。

「……あ」

声のトーンが、一段、落ちた。

「どうしたの」

「お母さんから。今度、プロのカメラマンさんの撮影、入れちゃったって」

画面には、見たこともないくらい華やかな衣装の写真が、映っていた。知らない大人たちに囲まれて、知らない笑い方を練習させられている花音が、そこにいる気がした。

「……ほんと、息が詰まる」

花音が、コントローラーを両手で握ったまま、小さくため息をついた。

「行きたくないなあ。……ここにいたい。今日みたいに、ずっと」

花音は、優しい。その場がいちばん丸くおさまる言葉を、いつでも選べる人だ。昼間の教室でも、そうしていた。……こんな私の部屋にいたい、なんて。本気のわけが、ない。

「……いいじゃん。あんた、そういうの似合うし」

「……似合うのは、知ってるよ」花音が、スマホを伏せた。「そういうんじゃなくて。私、ほんとは瑠杏と、ゲームしてるほうが——」

「いつまでもこんな暗いとこにいても、仕方ないでしょ」

遮った。自分の声が、思ったより、冷たく出た。

「……住む世界、違うんだし」

こんな、と自分で言った三文字が、遅れて耳に戻ってきた。あんな、と、同じ形をしていた。昼間、教室で私に向けられた言葉を、今度は私が、この部屋に向けて言っていた。

花音がいるべきなのは、こっちじゃない。さっきの画面の中の、あの華やかなほうだ。今日、はっきり、そう思った。

花音が、こっちに手を伸ばしかけた。指先が、コントローラー越しに、私の手に触れかけて——先に、私のほうが、手を引いた。 引っ込めた自分の手を、ちょっとだけ、嫌になる。

「……そっか」

花音の声は、それだけだった。責めるでも、拗ねるでもなく、ただ、それだけ。

「今日は、帰るね」

鞄を持って、立ち上がる。玄関で靴を履く音がして、ドアが閉まる。いつもより、静かな音だった。

ひとりになった部屋は、やけに広く感じた。 壁の線が、一瞬、大きくぶれた。二重どころか輪郭がばらばらに解けて、次の瞬間には、もう、いつもの部屋に戻っている。耳の奥で、電子音みたいな高い音が一本、鋭く鳴って、消えた。

うるさい。カフェインのとりすぎだ、たぶん。ここ最近、寝てないし。

スマホを開いて、朝上げたばかりのエナドリの写真を、消した。理由は、自分でもよくわからない。ただ、今日はもう、あの「今日のぶん」を、誰にも見られたくなかった。

第二幕 ・ CHAPTER Ⅲ 花音の踏み込み

次の日から、私は花音を避けはじめた。 朝は、コンビニに寄らない。缶は、家の冷蔵庫のを一本、鞄に放り込む。写真は、撮らない。上げれば、花音が見る。見れば、花音が来る。その線を、まず切った。毎朝の日課をひとつ手放したら、朝は、始まらないまま昼になった。

教室では、花音が「おはよ」と来る前に、ノートか、寝たふりか、トイレか。三つを順番に回していれば、話しかけられる隙は、だいたい潰せる。放課後は、チャイムと同時に鞄をつかんで、誰より先に教室を出る。

先に離れておけば、離されるより、痛くない。そういう計算だ。理屈は通っている。通っているのに、胸のあたりだけ、ずっと据わりが悪かった。

世界のほうも、日に日に、扱いづらくなっていった。 朝の光が、前より目に刺さる。人の声が、耳の内側を引っかいて通る。ときどき、廊下の壁の線が、一瞬だけ二重にぶれて、すぐ元に戻る。見間違いだと思うことにする。エナドリの飲みすぎだと思うことにする。ぜんぶ、そういうことにしておけば、たいていのことは、やり過ごせた。ただ、息の吸い方だけが、ときどきわからなくなった。水の中に沈んでいるみたいに、胸の奥がずっと苦しい。

教室では、花音のいるほうだけは、見ないようにしていた。見れば、あの輪郭だけが、あいかわらず一段くっきりと、そこにあるんだろう。今それを見てしまったら、たぶん、避けている理由のほうが、先に崩れる。だから、見ない。世界でいちばんはっきりしているものから、わざと目を逸らして過ごすのは、思っていたより、ずっと疲れることだった。

花音は、あきらめなかった。 スマホには、通知がたまっていく。『今日も部屋いっていい?』『きのうの続き、二面クリアできたよ! 見て』『瑠杏、体調わるいの?』。既読だけつけて、指が、返事の途中で止まる。何を打っても嘘になる気がして、消す。

昼休み、机に伏せていたら、目の前に、コンビニの袋がひとつ置かれた。顔を上げなくても、誰かはわかる。

「はい、これ。青いの、いつものやつ」

いつも私が選ぶ、あの一本だった。花音は、私がどの棚のどれを取るかまで、覚えている。

「……ありがと」

それだけ言って、また伏せた。花音が、何か言いたそうに、少し立っていた気配。でも、その日は、何も言わずに、席へ戻っていった。 もらった缶は、開けなかった。開けたら、負ける気がした。何に負けるのかは、自分でもわからなかった。

そうやって、何日か過ぎた。 その日も、放課後のチャイムと同時に、いつも通り、誰より早く鞄をつかんだ。廊下を抜けて、昇降口で靴を履き替えて、外へ——出たところで、足が止まる。

庇の影に、花音が立っていた。 先回りされていた。私がいつも、どのくらいの速さで教室を出るか、どの道を通るか。ぜんぶ、知られている。

いつもの、あの明るい顔じゃなかった。笑っていなかった。まっすぐこっちを見る目だけが、じりじりと照りつける日ざしの中で、痛いくらい、はっきりしていた。

「……瑠杏」

逃げ道を、目が勝手に探す。左、右。花音が、一歩、前に出た。

「なんで、避けるの」

もう一度、花音が言った。声が、少し掠れていた。

答えなんて、決まっている。決まっているから、言いたくなかった。言えば、終わる。でも、終わらせるために、私はずっと逃げてきたんじゃなかったか。

「……べつに。避けてない」

「嘘」

即答だった。一拍の迷いもなかった。

「ぜんぶ知ってるんだから。既読つけて返さないのも、朝ちがう時間に来てるのも、放課後ダッシュで帰るのも。……瑠杏が、わたしのこと、いないことにしようとしてるの」

いないことにしようとしてる。うまいことを言う。まさに、そうしようとしていた。 鞄の持ち手を、握り直す。汗で、少し滑った。

「……花音は、さ」声が、思ったより低く出た。「あっちに行けばいいじゃん」

「え」

「休日も、海も、行けばいい。みんな待ってるんでしょ。花音がいないと始まらないんでしょ。……そっちが、花音の世界じゃん」

「なにそれ、なんで急に——」

「私のことなんて、」

止めればよかった。止められなかった。ずっと喉の奥で膨れていたものが、暑さに溶けて、勝手に外へ出た。

「どうせ、暇つぶしでしょ。放課後、他にやることないから、ちょうどいいから、一緒にいるだけ。ちがう?」

言ってしまってから、空気が、しんと固まったのがわかった。 蝉の声が、やけに遠かった。

花音は、笑わなかった。いつもみたいに「なにそれ〜」と流してくれることを、心のどこかで、期待していたのかもしれない。流してくれれば、また、なかったことにできたのに。 でも、花音は、流さなかった。

「……暇つぶし」

小さく、繰り返した。その声が、初めて聞くみたいに、頼りなかった。

「わたしが、瑠杏のこと、暇つぶしにしてると思ってるの。……ううん、ちがう。瑠杏が、自分のことを、わたしの暇つぶしだって、思ってるんだ」

図星を、まっすぐ突かれた。何も、言い返せなかった。 そのとき、私は、初めて花音の顔を、まっすぐ見た。ずっと、見ないようにしていた顔を。

花音の目の縁に、水が盛り上がっていた。まばたきをした拍子に、それが、頬をひとつ、まっすぐ落ちた。

——その一粒だけが、この世界で、たったひとつ、本物だった。

まわりの、刺すような光も、引っかくような蝉の声も、二重にぶれていた壁の線も、ぜんぶ、いっぺんに、どこかへ引いていった。 音が、消えた。ただ、花音の頬を落ちていくその一筋だけが、痛いくらい、くっきりと、そこにあった。濡れたまつ毛の一本、震える唇の輪郭、赤くなった目もと。近い。近すぎて、目を逸らすことも、もう、できなかった。

こんなに、はっきりしたものを、私は、他に知らない。 泣かせたのは、私だ。 唯一、一緒にいても疲れなかった人を、私は、自分の手で、泣かせていた。

第 三 幕 これが私のクリア条件

第三幕 ・ CHAPTER Ⅰ 沈み込み

どうしよう、と思った。 でも、体は動かなかった。謝る言葉も、取り消す言葉も、喉の途中で、みんな溶けてなくなる。いつもそうだ。いちばん言うべきときに、私の口は、うまく動いてくれない。

足元から、力が抜けていく。地面が、やわらかい底なしに変わって、そこへゆっくり、沈んでいく感じ。まわりの音が、遠い。花音の泣き顔だけが、水面みたいに、頭のずっと上のほうにある。手を伸ばせば届く距離なのに、腕が、鉛みたいに重い。 息の吸い方を、また忘れる。

ああ、これでいい、とどこかで思う。私なんかが隣にいたら、花音は、ずっとこうやって泣くことになる。だったら、沈んだままのほうがいい。ここは静かだ。誰も傷つけずに済む。ずっと、こうやって、観ているだけでいられたら——

「——なんで!」

水の底まで、声が届いた。

顔を上げる。花音が、泣きながら、怒っていた。こんな花音を、見たことがなかった。いつもの、全方位に配った明るさが、いまはひとつも残っていない。ぐしゃぐしゃの、飾りのとれた顔で、まっすぐ私だけを見ている。

「なんで、勝手に、諦めるの。わたしはずっと、瑠杏と一緒にいたいのに」

一緒に、いたい。

「暇つぶしなわけ、ないでしょ。……わたしね、みんなの前だと、ちゃんと笑えるの。上手に。ずっとそう教えられてきたから。でも、それ、ぜんぶ、ほんとの自分じゃないんだ」

しゃくりあげながら、花音は続けた。

「瑠杏の隣だけなんだよ。笑わなくていいのも、盛らなくていいのも、ただの自分でいられるのも。……瑠杏は、覚えてないでしょ。入学式のとき、みんなが必死に自分を飾ってる中で、瑠杏だけ、なんにもしてなかった。ただ、そこにいた。それ見て、わたし、はじめて息ができたの」

息ができた。花音が、そう言った。 花音も、ずっと、息の吸い方を、探していたのか。私と、同じように。

第三幕 ・ CHAPTER Ⅱ 世界が色を取り戻す

花音が、手を伸ばしてきた。泣きながら、まっすぐに。その手が、沈んでいく私の、ずっと上のほうから、降りてくる。

いつもの私なら、ここで、目を逸らす。どうせ届かない、と決めて、自分から手を引っ込める。そうやって、これまで、ぜんぶ、先回りして諦めてきた。 でも。

世界でいちばん本物のものが、いま、私に手を伸ばしている。

鉛みたいだった腕が、ゆっくり、持ち上がった。自分の意思で、初めて、こっちから。花音の手を、握る。あたたかかった。あの日、コントローラー越しに感じたのと、同じ熱。

握った瞬間、ぐん、と、体が引き上げられた気がした。 息を、吸う。ちゃんと、吸えた。

顔を上げると——世界が、変わっていた。 いや、ちがう。世界は、たぶん、ずっとこうだった。私が、見ていなかっただけだ。

夕方の空が、こんなに色を持っていたなんて、知らなかった。オレンジと、その端に溶けていく青と、雲のふちの金色。校庭の緑が、目が痛いくらい、濃い。アスファルトの、細かい粒のひとつひとつまで、くっきりしている。蝉の声さえ、さっきまでの、耳を引っかく音じゃなくて、ちゃんと、夏の音として聞こえた。

ぜんぶが、近くて、鮮やかで、うるさいくらい、そこにあった。輪郭がはっきりしすぎている。あんなに苦手だった、鮮明すぎる世界。なのに、今は、少しも、疲れなかった。

目の前で、花音が、鼻をすすって、それから、ぐしゃっと笑った。涙でぐちゃぐちゃの、いつもの、太陽みたいな顔で。その笑顔が、色を取り戻したばかりの世界の、まん真ん中で、いちばん眩しかった。

「……瑠杏。やっと、こっち見た」

「……うん」

うまい返しは、ひとつも浮かばなかった。ただ、握った手を、離せなかった。

鞄のなかには、あのときもらった青い缶が、まだ入っている。すっかりぬるくなってしまったあれを、家に帰ったら、開けようと思う。

第三幕 ・ EPILOGUE エピローグ 単色の記録に、色がつく

それから、私の朝は、少しだけ変わった。 缶は、相変わらず、毎朝上げている。青の、糖分ゼロ。花音は相変わらず、毎朝「体に悪い」と怒ってくる。そこは、何も変わらない。 変わったのは、その先だ。

二人で撮った、ぶれた自撮り。

黒い缶が一本きりだった私の置き場所に、いつのまにか、写真が増えた。二人で撮った、ぶれた自撮り。花音のばかみたいに甘いドリンクと、私の黒い缶が、並んで写ってるやつ。意味もなく撮った、夏の空。 単色だった記録に、少しずつ、色が混ざっていく。

私は、たぶん、これからもこんな性格は変わらないのだろう。人混みは苦手だし、朝は無理だし、エナドリは必須。世界は相変わらず、情報で溢れている。 でも、隣で、花音が笑っている。 それだけで、この世界も、案外、悪くない。

……ま、こういうのは、口には出さないけど。

花音に引きずられて、最近は、外のやつにも手を出した。走り回って撃ち合うやつ。三分で息が切れるし、花音は相変わらずうるさい。でも、隣で花音がきゃーきゃー騒いでいるのを見ていると、ま、悪くはない。

始めるとき、目のなかのレンズだけ、新しくした。古いほうは、とっくに壊れていたらしい。いつからかは、わからない。ずっと、気づかなかった。……ふつうに、使えてたけどな。度も、ちゃんと入ってたし。 ま、いいか。今さらだし。

自分のアバターも、少しだけいじった。ほとんど何も変えていない。インナーカラーのところだけ、青に、すこし緑を足した。 理由は——べつに。

ただ。最近、花音が、ときどき前と違う目をする。 私が外の世界で笑っているのを見て、花音も笑う。でも、その笑い方が、前みたいに安心した顔じゃなくて、すこし、眩しそうにしている。

なにを考えているのかは、まだ聞けていない。

でも、それは——また、別の話。

前 日 譚 優秀なフィルター

前日譚 ・ CHAPTER Ⅰ 起 花のヘアピン

それは、中学二年の冬より前のこと

昼休みの教室は、いつも少しだけうるさい。 耳の奥で、誰かの笑い声が丸くなって弾けている。元気だなぁ、と思う。私はそこまで声が出ない。出さないんじゃなくて、出ない。でも嫌いじゃない。遠くで波が鳴っているみたいで、作業用のBGMとしてはちょうどいい。

タブレットの画面に、花のヘアピンが回転している。3Dモデリングソフトの中で、ゆっくりと。花弁の一枚一枚に細かい凹凸をつけて、光の当たる角度で色が微妙に変わるようにした。昨日の夜から、ずっとこの曲面を磨いている。

「九条さーん、できた?」

声のほうを向くと、隣の席の美咲が覗き込んでいた。

「うん。たぶん。ちょっと待って、今送るから」

タブレットから美咲のアバターにデータを飛ばす。転送のプログレスバーが端から端まで走って、ぴこん、と短い音。 美咲のARアバターの髪に、私が作った花のヘアピンが現れた。白い花弁が、教室の照明を受けてうっすら光っている。

「わぁ、めっちゃ可愛い!」

美咲が自分の髪に手を当てて、ヘアピンの位置を確かめるみたいに触れている。アイリス越しの指先が、白い花弁をそっとなぞる。あ、よかった。ちゃんと似合ってる。

「九条さん、ほんとにモデリングできるんだ。天才じゃん!」

「いや、そんな……うん。喜んでもらえてよかった」

天才は言い過ぎだ。でも、自分が作ったものを誰かが喜んでくれるのは、やっぱり嬉しい。顔が少しだけ熱くなるのがわかる。

「これずっと着けとくね! ありがと!」

美咲が笑う。普通に、まっすぐに。そういう笑い方をされると、なんだか安心する。 予鈴が鳴った。

「あ、次移動教室だ」

教室の入り口のほうから、「美咲ー、行くよー」と別のグループの声がした。美咲がそっちに手を振って、こちらに振り返る。

「じゃあ、またね!」

美咲が小走りにグループのほうへ合流していく。その後ろ姿の髪に、白い花のヘアピンが揺れている。 私はそれを少しだけ目で追ってから、タブレットをスリープにした。

……ふふ。 小さく息を吐いて、口角が勝手に上がる。 立ち上がって、鞄から教科書を出す。移動教室、面倒だな。でも、なんだろう。足が軽い。

作ったものが、誰かの日常の一部になる。それだけのことが、こんなに嬉しいなんて、ちょっとだけ意外だった。

前日譚 ・ CHAPTER Ⅱ 起 もうひとつの画面

部屋の明かりは、とっくに消してある。 カーテンの隙間から入ってくる街灯のオレンジと、タブレットの画面の青白い光。机の上には、飲みかけのエナドリにストローを挿したまま置いてある。その周りに、スタイラスペンの替え芯のケースと、使い終わった練り消しと、メモ書きだらけの付箋の束。壁際には、もう何年も前のゲーム機が埃をかぶって積まれている。今どき、こんなもので遊ぶ人間のほうが珍しい。でも、この部屋にある好きなものは、全部そういう古くさいものばかりだ。

タブレットの画面には、昼間のヘアピンとは似ても似つかないものが映っている。 アバターの改変データ。アイリスが普及して、みんなが自分を好きなように見せるようになったおかげで、この手の素材はいくらでも売れる。私みたいなのにも仕事が回ってくる。ありがたいことだ。

私がやっているのは、その「売れる」側の仕事だった。ただし、昼間に美咲に渡したような可愛いヘアピンではなくて。 際どい衣装の素体データ。肌の露出が多い改変パーツ。影の落とし方ひとつで、見る人の体温を変えてしまうようなテクスチャ。R18のタグがつく類のやつ。需要がある、というのは本当だ。実際、売れる。でも正直に言えば、需要があるからやっているだけじゃない。やっちゃいけないものに手を出している感覚が、少しだけ楽しかった。学校では絶対にできない、夜の自分の部屋だけに許された、秘密の遊び。

テクスチャの質感を調整する。メッシュの頂点を動かす。ウェイトを塗り直す。気がつくと、手だけが異様な速度で動いていて、それ以外のものが全部止まっている。

ふぅ。 ペンを置いて、首を回す。時計を見たら、二時を過ぎていた。

完成したデータをエクスポートして、ブラウザを開く。クリエイター向けの販売サイトの管理画面。ここに、私のもうひとつの名前がある。学校の九条瑠杏とは別の、誰も知らない名前。 サムネイルを設定して、価格を入れて、説明文を打ち込む。アップロードのボタンを押す。プログレスバーが走って、完了。

昼間あんなに褒めてくれたのに、こっちのアカウント見たら絶対引くよね。 ……気をつけないと。

あくびがひとつ。瞼が重い。明日も学校がある。 タブレットをベッドの横に放り出して、毛布をかぶる。画面はつけたまま。管理画面のサムネイルが、暗い部屋の中で、青白く光り続けている。

ロックをかけなきゃ、と思った気がする。 でも、もう指が動かなかった。

前日譚 ・ CHAPTER Ⅲ 承 反転

翌日の昼休み。移動教室から教室に戻ると、なにかがおかしかった。 私の席の周りに、人がいる。五、六人。男女混じって、不自然な塊になって、何かを覗き込んでいる。 その中心にあるのが、私のタブレットだと気づくまでに、三秒もかからなかった。

画面が、ついている。 昨日の夜、閉じ忘れたブラウザ。販売サイトの管理画面。そこに並ぶ、サムネイルの列。肌色の多い、露骨なイラストや過激なモデリングが、教室の蛍光灯の下で白々しく光っている。

足が止まった。

きっと、誰かが昨日のアクセサリーをもう一度見ようとしたんだと思う。スリープを解除して、可愛いヘアピンのデータを探そうとして。でも画面に映っていたのは、昨晩の私が閉じ忘れた、もうひとつの顔だった。 集まっていた生徒たちが、一斉にこっちを振り返った。

目が合う。何人もの目が、同時に。 アイリスの安全機能が和らげているはずの音が、なぜか全部、そのまま届いてくる。ヒソヒソという囁き声。短い笑い。誰かが鼻で息を吐く音。

「え……これ、九条さんのアカウント?」

美咲の声だった。昨日まで、可愛いって笑いかけてくれていた、あの声。

「やば。こういうの描いてるの?」

横から、男子の声が被さる。

「マジ? 九条エロすぎだろ。そーゆーの、興味あるんじゃね?」

笑い声。下卑な、粘ついた笑い声。 美咲が、もう一度口を開いた。

「……え、ちょっと待って。これ、九条さんが作ってたの?こういうのも?」

美咲の声は、怒っているというより、戸惑っていた。何を言えばいいのかわからない、という顔。それが、直接殊られるよりも、ずっと苦しかった。

ARの操作画面が、美咲の指先で開かれるのが見えた。 アバターの設定。アクセサリー。花のヘアピン。

——削除。

ぽん、という軽い音がして、白い花弁が粒子になって消えた。昨日の夜、曲面を磨いて、光の角度を調整して、花弁の一枚一枚に凹凸をつけた、あの花。

「……あっ。ちが、それ……」

声が出ない。喉がからからに干上がっている。舌が上顎に貼りついて、剥がれない。 ニヤつく男子たちの笑い声と、女子たちの、汚物を避けるみたいな冷たい目。顔が、歪んで見える。アバターの表情も、その向こうの素の目も、全部が不気味に大きくなって、こっちを覗き込んでいる。

さっきまで、可愛いって笑いかけてたじゃん。 なんで、そんな、這い回る虫を見るみたいな目で——

前日譚 ・ CHAPTER Ⅳ 転 廊下

教室を飛び出した。 鞄を引っつかんで、椅子を倒して、後ろで誰かが何か言ったけど、聞こえなかった。聞きたくなかった。 廊下を走る。息が荒い。鞄の角が腰に当たって痛い。

すれ違う生徒たちは、ただ放課後の談笑をしているだけだ。私のことなんて知らない。知るわけがない。でも、笑い声がひとつ聞こえるたびに、背中に針が刺さるみたいに体が跳ねる。 あの教室にいた顔が、全部、ここにもいる気がする。

動く唇。ひそめる眉。ちらりとこっちを向く目。表情の一つ一つが、やけに生々しくて、鮮明で、情報量が多すぎて、処理が追いつかない。安全機能が和らげてくれているはずなのに、全然足りない。減衰しきれない「人間」の量が、頭の容量を完全に超えている。

耳を塞いだ。両手で、強く。 でも、目は塞げない。アイリスが網膜に映す視覚情報は、手で遮れない。

こっちを見ないで。 見ないで。笑わないで。 人間の顔って、こんなに気持ち悪かったっけ。

息が詰まる。水の中に沈められたみたいに、肺が苦しい。 階段を駆け下りて、昇降口を突き抜けて、校門を抜けた。振り返らなかった。振り返ったら、まだあの目がこっちを追いかけてくる気がした。

前日譚 ・ CHAPTER Ⅴ 結 フィルター

自室のドアを閉めて、鍵をかけた。 鞄を床に投げ出して、制服のまま、ベッドに倒れ込む。 天井を見上げる。白い天井。朝、毎日見ているのと同じ天井。 でも、目を閉じると、まだそこにいる。

ゴミを見るような目。汚いものに触れたみたいに顔を歪める口元。 ぽん、という軽い音。白い花弁が、粒子になって消えていく。

何度も、何度も、繰り返す。 昨日まで普通に笑いかけてくれていた顔が、全部、別のものに入れ替わっている。同じ顔のはずなのに、中身だけが、丸ごと取り替えられたみたいに。

……もう、何も見たくない。

両手で目を押さえた。強く、痛いくらいに。こんなうるさい世界を見たくなくて、解放されたくて、アイリスを外し、ケースごと放り投げる。

視界が、一瞬で溶けた。 何も見えない。輪郭がない。天井も壁も、自分の手も、全部がぼやけた色の塊になって、境目がどこにもない。 そうだった。私は目が悪い。アイリスがなければ、この部屋の中ですら、まともに歩けない。

しばらく、そのままうずくまっていた。暗いわけじゃない。ただ、何もかもの輪郭がなくなっただけ。ぼんやりとした色の海の中で、息だけをしている。

でも、それはそれで不便だった。 トイレに行きたくなって、水が飲みたくなって、結局、何も見えないまま床を手で探る羽目になった。指先がプラスチックの角に触れて、拾い上げる。外見上は、ヒビ一つ入っていない。さっき投げたくらいで壊れるほど、やわなものじゃないはずだ。 ゆっくりと、顔に戻す。

——直後。 視界が、一瞬、ぐしゃっと乱れた。

世界は、さっきまでとは別のものになっていた。

色がばらけて、線が走って、画面全体がちかちかと明滅して。それが収まったとき、世界は、さっきまでとは別のものになっていた。 角ばっている。 平たい。 粗い。

天井のシミも、カーテンの皺も、床に転がった鞄も、全部が、四角いモザイクの粒で塗りつぶされている。情報量が、ごっそり削り落とされている。細かいものが、何も見えない。

……なんだろう、これ。 立ち上がって、部屋を見渡す。

ノイズだらけの自室。さっきまであんなに生々しかったものが、全部、粗いフィルターの向こうに沈んでいる。情報量の多すぎた世界が、角ばった、低解像度の、安全な箱庭に姿を変えていた。

息を吐いた。 憑き物が落ちたみたいに、肩の力が抜ける。

「……なんだ。これでいいじゃん」

声に出したら、少しだけ楽になった。 壊れたんじゃない。 私に必要ないものを、全部見えなくしてくれた。 ……なんだ。優秀なフィルターじゃん。

膝を抱えて、ノイズに包まれた静かな部屋を、ぼんやりと眺める。もう、あの目は見えない。あの笑い声も、あの囁き声も、全部、粗い粒の向こう側に消えている。 もう、傷つかなくていい。 もう、誰の顔も、読まなくていい。 この粗い箱庭の中で、ひとりで、息をしていればいい。

それが、中学二年の冬のことだった。